エックハルト ラテン語著作集 III ヨハネ福音書註解

  • エックハルト ラテン語著作集 III ヨハネ福音書註解
本書はその完成度と浩瀚さ,さらにその思想と表現の豊かさで,ドイツ語著作を含め全著作中の主著である。
エックハルトの聖書註解は,少数の聖句を「哲学者の自然的論証」によって解釈し,字義的意味の背後に隠されている比喩的霊的意味を明らかにすることが課題であり,本書では始原論と受肉論が展開される。
冒頭の聖句「初めに言葉があった」における初め,すなわち始原の解釈が行われる。彼は「始原」を「理念」,「知性」,「存在」として把握するが,これは『創世記註解』の「始めに神は天と地を造られた」の解釈と呼応している。エックハルトは旧約と新約の異なる聖句を整合的に解釈し,聖書の全体が部分に含まれ,一つの聖句に聖書全体の思想が反映すると確信し,「始原」への問いは「聖書の哲学」としてエックハルト思想を貫いている。
次に「言葉は肉となった。そしてわれわれのうちに住んだ」の解釈を通し特異な受肉論が展開される。通常「言葉は肉となった」はキリストを指すが,彼は「われわれのうちに住んだ」という部分を重視し,われわれが神の養子となることにより神の子になるとして,「霊魂のうちにおける神の子の誕生」という主題が思弁的に委曲をつくして説かれる。これは『ヨハネ福音書註解』の根本的なモチーフで,キリスト教の奥義である受肉と三位一体について,エックハルトはトマスとは異なりどこまでも自然理性によって主体的実存論的な意味を探求した。

梗概(タブラ)
序 言
第1章 「すべてのものがそれ〔言葉〕によって生じた」(3節) 他
第2章 「そして三日目に,ガリラヤのカナにおいて婚宴が行われた」 他
第3章 「パリサイ人のうちにひとりの人がいた」,そして以下において,「この人は夜にイエスのところに来た」等々(1,2節) 他
第4章 「イエスは知ったときに」,さらに以下において,「この水を飲んだすべての人は再び渇くであろう。しかし私が与える水を飲んだ人は永遠に渇くことはないであろう」(13節) 他
第5章 「こののちにユダヤ人たちの祭の日があった」 他
第6章 「このことの後,イエスは湖を越えて〔対岸へ〕行った」等々,さらに以下において,「彼らが約25ないし30スタディウムの距離を漕ぎ出したとき」(19節)
第7章 「この後,イエスはガリラヤを巡っておられた」,さらに以下において,「私の教えは私のものではなく,私を遣わした方のものである」(16節) 他
第8章 「しかしイエスは山へ行かれた」,さらに以下において,「二人の証言は真実である」(17節) 他
第9章 「そしてイエスは通りすがりに,ひとりの人を見られた」(1節) 他
第10章 「まことに,まことに,私はあなたがたに言う,門から入らない者は」,さらに以下において,「私は,彼らが生命を持つように,豊かに持つように来た」(10節) 他
第11章 「ラザロという或る病人がいた」 他
第12章 「イエスは過ぎ越しの祝いの六日前に〔ベタニアに来られた〕」 他
第13章 「過ぎ越しの祝いの祭の日の前に」 他
第14章 「あなたがたの心を騒がせることはない」等々,さらに以下において,「私は道であり,真理であり,生命である」(16節) 他
第15章 「私は真の葡萄の樹である」等々 他
第16章 「これらのことを私はあなたがたに語った」,さらに以下において,「私が行くのは,あなたがたのためである。というのは,もし私が去らなければ,弁護者はあなたがたのところに来ないからである。もし私が去るならば,私はその者をあなたがたに遣わそう」(7節) 他
第17章 「これらのことをイエスは語った」,さらに以下において,「彼らが唯一の真の神であるあなたとあなたが遣わしたイエス・キリストを知ることが,永遠の命である」(3節) 他
第18章 「これらのことをイエスが言ったのちに〔イエスは弟子たちとキドロンの谷の向こうへ行かれた〕」(1節) 他
第19章 「そのときピラトはイエスを捕らえた」 他
第20章 「しかし,その週の最初の日に」,さらに以下において,「二人が同時に走っていった」等々から「彼は墓のなかに入って行った」(4-6節) 他
第21章 「その後,イエスは再び現れた」,さらに以下において,「私は漁に行く」(3節) 他


エックハルト 著
中山 善樹 訳

出版年月日 2008/07/15
ISBN 9784862850362
判型・ページ数 A5・690ページ

出版:知泉書館

エックハルト ラテン語著作集 III ヨハネ福音書註解

10,450円(本体9,500円、税950円)

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