ガリラヤのイェシュー

  • ガリラヤのイェシュー
9年間待たれていた「日本語訳新約聖書四福音書」がついに完成!

本書の特徴

本文への補註の挿入

「福音書本文」と「註釈文」とを、文としては一つながりになるようにしながら、註釈の部分を段落を下げ、字体を変えて、一目で見分けられるように書いています。
これにより、補註をいちいち参照しながら読む必要がありません。

異文化の文物風俗の言い換え

新約聖書は現代の日本とは地理的、時間的、文化的にきわめて遠い二千年前の出来事を書いた文章です。
日本人の生活文化からかけ離れている文物・動作については、本文の内容を損なわない限り思い切って変更し、日本的な表現に置き換えました
例:「 接吻→頬ずり」「隅の親石→大黒柱」 「紫の衣に柔らかい亜麻布→金襴の衣装に緞子の帯」など

翻訳文体の選択

イエスの活動した二千年前のユダヤ社会は厳しい身分制度がありました。
王に家臣、商人や地主などの富裕層。商人や地主のもとには自作農や小作農がいて、零落した日雇いの労務者、そして奴隷がいました。
そんな混沌とした社会を分かりやすくする為に、幕末から明治維新かけて使われていた日本語を擬似的に用いることを試みました。
地の言葉「公用語」は関東武家階級の言葉に似せる。
ガリラヤ出身のイエスとその仲間は 東北地方の農民の言葉。
イエスは仲間内で喋るときには方言丸出しだが、改まったお説教をするときや、階級の上の人に対しては公用語を使う―。

例えば…
ガリラヤ衆はケセン語や仙台弁、盛岡弁。
ガリラヤ湖東岸の異邦人たちは津軽弁。
領主のヘロデは大名言葉
ファイサイ衆は武家用語
イェルサレムの人々は京言葉。
商人は大阪弁。
サマリア人は山形県庄内(鶴岡)弁。
イェリコの人は名古屋弁。
ユダヤ地方の人は山口弁。
ギリシャ人は長崎弁。
ローマ人は鹿児島弁。
全国各地の多彩な方言が飛び交います。


『ガリラヤのイェシュー』刊行に寄せて
カトリック仙台教区 司教:平賀 徹夫

山浦玄嗣氏の労作第二弾が世に出ました。
新約聖書ギリシャ語原典からの、 この度は”セケン語訳”四福音書です。
第一弾は『ケセン語訳新約聖書・四福音書』でしたが、 周知のとおりそれは日本中で大変な反響を呼びました。
「ふるさとの仲間に敬愛するヤソのことを伝えたい」との並々ならぬ思いに衝き動かされて山浦氏は、頭ではひととおりの理解はできるというだけの言葉ではなく、ふるさとのことばこそ「ヤソの言葉を腹の奥までも響かせる力強いことば」であるとして、ケセン語に翻訳して提供するという前代未聞の試みを敢行したのでした。
この労作に対して湧き起った大変な反響、それはきっと山浦氏ご自身が予感できた以上の出来事だったに違いありません。
なぜならこの労作がもたらした影響はただ単に”ケセン語地方の仲間”に対してだけではなかったからです。
ケセン語を知らない全国の人々も、それこそ「頭でひととおりの理解ができる」以上に「腹の奥までも響いてくる」ことばを聞いた、という体験をしたのでした。
全国処々方々からの氏への講演依頼が引きも切らなかった事実がそれを物語っています。
人がキリストの福音を福音として受け止めることができ、そしてそれが他者に伝わっていくことにもなっていくのは、頭だけでなく腹の奥底で味わうことができ、そしてその宝を心から、腹の底から溢れてくる自分のことばで表現することができて初めて可能となるのでしょう。
この第二弾『ガリラヤのイェシュー』は、さらに興味深い試みのもとで完成された力作翻訳です。
日本の北は津軽から南は薩摩まで各地のふるさと(セケン)の言葉で語る人々が登場します。
自分のふるさとがどこであろうとも、人はそれぞれ腹にストンと落ちる自分のことばでもって聖書に関わっていくことができること、こうして福音が文字通りどのような人にも向けられている普遍的な「よいたより」であることの一つの証明ともなっていくようです。

本書と合わせて読む新約聖書四福音書解説書『イチジクの木の下で 上巻』はこちらへ


2011年11月
A5変形(210 × 127mm)664頁
ビニール表紙金箔押し糸かがり上製本
カラーカバー付

訳者:山浦玄嗣
出版:イー・ピックス

ガリラヤのイェシュー

2,640円(本体2,400円、税240円)

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